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  • fujibakegaku

散歩② 真鶴~東京

どうやってその駅に着いたかはもう何も憶えていない。


真鶴の駅から海に向かって歩いていた。ただただ歩きたかった。


潮風の中を歩いて、ようやく海が見え、なんか落ち着いた頃、腹が減ってきた。海辺の町は何だか勝手に安く海の幸が食べれるイメージだったが、歩いても歩いても1200~300円はする物ばかりだった。海っ端を歩いて半ばにさしかかった頃、遊覧船の船着き場のプレハブみたいな所で1000円以内で食べれる食堂の立看板を見つけた。昼も確か過ぎていて、港町は3時には大体の食堂は閉まる苦い記憶も手伝って、とにかくその食堂に入った。エプロンをつけた店主に表の看板に出ていた一番安い海鮮丼を注文した。10分もしないうちに鯵がのった丼と見たこともないグロテスクなブロッコリーのような茹で野菜のマヨネーズがけが出てきた(のちにロマネスクと知った)。正直、たいした感動も無く、ただただロマネスクの異様な様だけが頭に残りながら、食堂を後にして、再び歩き出した。


坂にさしかかった頃、急に声が漏れ出て涙がこみあげてきた。涙をぬぐいながら歩くしかなかった。4年間の美大受験にすべて落ちて、周りに合わせる顔も無く、何を言っていいのかも分からなくなっていた。何も残らなかった。二十歳をいくつか過ぎた男は生まれて初めてしたバイトも最後の試験の前に辞めていた。この先の不安が坂道の足元で余計に重い。木々を通り過ぎる潮風の匂いが余計に涙を誘う。坂を上がって美術館の手前の駐車場に来た所で、なけなしの理性を振り絞って涙を止めた。


かつて熱い眼差しで見ていた絵も今は何か自分を否定されているようで辛かった。それでも絵を眺めながら何とか自分を慰めていた。再び1階の展示室の小さな酒蔵の油絵をじっくりと眺めた。


展示室の横にあるビデオルームのイスに座っていたら、お尻の座面が微かにざわついている。足音や通る車の振動だと思ったが、なんだか違う、妙に長い。その地響きのようなものは1分もしないうちにドドッと地が唸るように揺れた。今思えば10秒もなかったと思う。呆気に取られていたが、周囲もただならぬ揺れにざわついた。美術館は騒然して、開きっぱなしの事務所のドアからテレビの東北の様子が伝わってきた。海の水が町の家々を飲み込んでゆっくりと進んでいる(記憶が前後している。原発の光景だったかもしれない)。体がサーっとして血の気が引くのがわかった。


とにかく駅に向かおうと思った。

来た時とは逆に海と反対の内回りに歩いた。小さなラジオを持っていたので耳にイヤホンをして歩きながら聞いたが、同じ言葉の繰り返しのようで、雑音も混じって、ただ聞き流していてあまりおぼえていない。それよりも見下ろすように見える真鶴の海はテレビの光景とは信じられないくらい穏やかで、かえって気持ちが妙にざわついた。途中の民家の入口では一斗缶でたき火をしていた。慣れない道も何とか歩き駅にたどり着いた。そこまでは妙に穏やかだったが、駅には人々が群がっていた。


電車が止まっていた。

騒然としていて、電車が動く気配もない。駅前にはタクシーがまばらに止まっていて、相乗りして湯河原の方まで向かう人達もいた。

たぶんこの様子じゃ、湯河原に行っても同じ事だと思い、とりあえず、駅横のキヨスクのコンビニで何か買おうとしたが、おにぎりとかの食べ物はもう売り切れていた。とりあえず、切り身のバームクーヘンを買って駅から少し離れたセブンイレブンに向かった。

読みは当たって、まだ食べ物は残っていた。水2ℓ、板チョコレート3,4枚を買って長丁場を覚悟した。再び駅に戻り、駅のホームに立ってみた。持っていた本をとりあえず読んで時間を潰した(図書館で借りた美術手帖 村上隆だったと思う)。駅のホームは地震の前とは何らかわらない風が流れていて、また何とも言えない気持ちになった。


幾度か席を替え1、2時間くらいたった頃、再び改札を出て時間を潰した。タクシーで町を出ていく人々に妙なさびしさを抱きながら、本を読むのもそぞろだった。どれくらい時間がたったのか、駅前にワゴン車が止まって駅員室に向かって人が降りて行った。駅員室からその人が出てくると周りの人に話しかけている。こっちにも来て、確か「もう今日は電車は

たぶん動きません。明日の朝までとりあえず、避難所に来てください」

駅で寝ようと思っていたので、まさに渡りに船だった。(この言葉がこんなにピッタリな時は人生で初めてだった)

ワゴン車に7、8人くらい乗り込み少し坂を下るように5分もたたずに、平屋の集会所みたいな所に着いた。

靴を下駄箱に入れ、入ってすぐの20畳くらいの所に通された。すでに地元の人達も何組かいた。8組くらい揃った所で、地元の男性から電車が止まっている事、朝には動くと思うから、一晩ここで泊まって欲しい事が伝えられ、毛布や災害用の乾パン、水を入れて食べる米などが配られた。

ただ壁に寄りかかったり、横になったりしながら、耳にイヤホンのラジオを聞きながら、携帯を見ていた。駅でも電話はおろか、メールもどうやら届いていないようだった。はなから泊まるつもりもなく充電器もない。当時はガラケーで1,2日なら多分大丈夫だったろうが、万が一に備えアドレス帳にわずかに入っていた十何件のアドレスをメモ帳に書き写した。


そんなことをしながら、気がついたら寝ていた。

夜中にも1,2度目は覚めたが、気がつけばが障子から朝陽が射して、薄明るくなっていた。再びラジオを耳につけても、気休めになるくらいだった。

周りもポツポツと起き出して少し落ち着いた頃、再び地元の男性が現れて「電車が動きそうです」と伝えてくれて、真鶴の駅に送ってもらえる事になった。何時だったのだろう。集会所を出る時ふと、下駄箱の所で「ありがとうございました」と声に出して言った。何か言わずにはいられなかった。駅に着いて車を降りる時、送ってくれた地元の男性が「また来てね。真鶴を嫌いにならないでね・・。」と言った。「ありがとうございました」と返していた。


ホームでも結構待っていたのかもしれない。

相変わらず電話は繋がらない。メールは届いているのか?ラジオを耳に入れてもすり抜けていく。朝の空気は澄んでいても落ち着かない。


電車に乗ってからは思いのほかスムーズに東京に帰って行けた。都内に電車が入った頃、メールを受信した。昨日の日付の母からのメール❝こちらはゆれたけど、大丈夫です。気をつけて帰ってきて❞と言う文面だったと思う。少しホッとした。

行き交う人々が右往左往していたと思うが、そこはよく憶えていない。

何とか自宅の最寄り駅までたどり着き、自宅にもたどり着いた。物静かな確か午後の空気、仕事で千葉にいた父はまだ帰ってきていなかったが、すでに連絡は取れていて、職場に一晩泊まったとの事だった。自宅にいた母は大きな揺れだったが、多少棚の物が落ちた程度だったとの事。猫が揺れと同時に納戸の奥に潜り込み、しばらく出てこなかったが特にケガは無かったらしい。


自分の部屋のドアを開けると、パッと見変わりは無かったが、机の上に飾っていた物が落ちた事、筆洗の水が揺れて少しこぼれて描きかけ水彩画が滲んでいた。


2011年3月12日夕方にさしかかっていた。





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